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月曜備忘録

東奔西走したり、近場をさまよったり、お家でぐったりしたり……週末の所業や所感を記録する場所(旧名:兵站の鬼を目指して……)


初夏の山歩き訓練

全国的に真夏のような酷暑が襲ったこの週末。
研修担当の闇を全身に浴びた平日を辛くも生き延びた反動に、お休みモード全開でリュックを背負いお出かけしてきました。

新幹線を名古屋で降りて、関西線に乗り継ぎ、降り立ったのは三重県の入り口、桑名駅です。
ここでJRを下車したら、改札脇のバス乗り場の一角にひっそりと佇む西桑名駅へ向かいました。

レトロな雰囲気の漂う西桑名駅から乗車したのは、普通より一回り小さい印象を受ける三岐鉄道の北勢線電車です。
この北勢線は日本では数少ないナローゲージ、すなわち在来線の軌間よりもさらに狭い軌間で敷設された旅客鉄道です。
当然ながら、ナローゲージへの乗車は初めての経験。心なしか低い天井に、狭い車内、むんと暑いこんな日では車内も心なしか蒸し暑い気がしてしまいました。
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そんな夏を感じる小さなローカル線に乗り込んで、向かった先は終点の阿下喜駅です。
阿下喜駅までは西桑名駅から1時間と少しの行程。長いようで短い時間を、心なしか揺れが大きな列車に揺られて過ごします。
急曲線や小さなホームの無人駅、水の張った田んぼの長閑な風景を眺めていれば、湧き立つ旅情に満たされているうちに到着してしまいました。

降り立った阿下喜駅は三重県いなべ市にある古い町の一つです。
桑名藩領の時代には旅籠屋や酒造が軒を連ねた都市だったのだとか。
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ふらりと旧市街と思しき区画を巡り歩けば、今でも重厚な商家風の家が軒を連ねた区画にも行き当たります。
人通りが乏しく、空き家と思しき家も多いのが寂しいことですが、絵に描いたような“夏の田舎町”の風景にもそこかしこで行き合いました。

もちろん、いくら放浪が好きと言えど、縁もゆかりもなく名も知らぬ田舎町まで行くほど、無計画ではありません。
ほんの一時ながら、記憶を伴わないノスタルジックに浸ったら、駅近くの温泉施設に向かい友人との合流のために待機です。
この日の合流予定者はフォロワーの天野しき氏、燻製ハム氏、けむけむ氏、拓夏氏の4名です。
翌日の登山に備えて、キャンプをしようとの算段だったのですが、都会に住まう4名は先行して土曜も登山中とのこと。
電波が通じなければ、連絡の取りようもありません。
先に温泉に入ってしまい、休憩室で持参した文庫本を読みながら、だらだらと贅沢な時間をしばらく過ごしました。

結局、温泉に着いたのが13時頃なら、フォロワーと合流できたのは16時半頃のこと。都合3時間半も温泉でダラダラしていた計算ですが……たまにはそんな土曜日も良いものですよね。
この後は、フォロワーの風呂上がりを待って買い出しを済ませ、関ヶ原にあるグリーンウッド関ヶ原キャンプ場に宿泊となりました。
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山行を控えた前泊キャンプ。焚き火に肉を焼き、コンロで鍋を作り、酒を交えてと、楽しむことは楽しみながらも、程々のところで切り上げて、翌朝を迎え撃つことにいたしました。


翌朝は前日の早寝が奏功して、朝もスッキリとしたお目覚めです。
優雅に朝食をとって荷造りしても8時過ぎには出発することができました。

そんな訳でキャンプ場を後にしたら、しきさんの車に揺られて滋賀県米原市の上野地区にある伊吹山の登山口へ。
ここに車を駐めて、登山口の三之宮神社で無事な山行を祈ったら、今週のメインイベント伊吹山登山に出発です。
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今回の登山は5人パーティーで行くグループ登山、私としてもこれほどの多人数は初めての経験です。
隊列の順序を意識したり、追い抜きや追い越しのタイミングに気を使ったりと、少人数のときにはない心遣いを意識しながら山頂を目指します。

もっとも、メンバーには伊吹山経験者も多数いるので、ペース配分も道のりの情報も任せっきりで安心です。
ただひたすら、足手まといにならぬようペースを合わせてついていきます。
序盤の石ころが多い林道を抜けて、ハングライダー場の脇を通りぬけて、再び森の中へ。
3合目を過ぎたあたりから視界も開け、目指すべき伊吹山の山頂も目の前に姿を表します。
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3合目から5合目までは比較的穏やかな道のりが続きますが、5合目まで来ると雰囲気が一変します。
小屋の脇にたつ少し場違いな赤い自販機と、その向こうに広がるのは山頂まで幾重にも重なる九十九折の登山道です。
この5合目の休憩スペースで、先々の道のりの登り一辺倒さを脅されながら、一休みです。

一息入れたら、5合目から山頂までは九十九折の急坂をひたすら登るのみ。
振り返れば、今来た道のりがそのまま一望できるのが気持ちよさでしょう。一方、上を見上げれば……声が出なくなりそうですね。
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細かい道のりも時間も忘れた頃に、ようやく山頂周辺を巡る遊歩道までたどり着きました。
この遊歩道まで辿り着けば、もう安心でしょう。
伊吹山は9合目まで車道でもつながっており、山頂周辺の遊歩道は登山道よりもずっと整備された環境となっています。
安心して遊歩道を少し進み、展望台まで顔を出してみれば、辿ってきた道のりが山の斜面に張り付き、その向こうには近江平野が、さらに琵琶湖も望める絶景を拝むことができました。

絶景の展望台のあとは山頂周辺の売店群で一休み。下山も待ってますが、罪深い一杯で登頂を祝ってしまいましょう。
強い日差しを避けたパラソルの下、山の風を浴びつつ、よく冷えたビールの美味しさに感謝してしまいます。
山頂近くまで車で行けてしまうと言うと、頂上の有り難みに欠ける気もしますが……こういうことが気軽にできるのは、文明様様ですね。
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もちろん、下山前には頂上うぃしっかり確認してから帰りましょう。
伊吹山は百名山にも数えられる名峰ですが、その頂上1377mの位置には一等三角点も設置されています。
見晴らしの良い限られたところにしか設置されない貴重な三角点。先人たちの測量の手間に思いを馳せながら、下りの行程へと移行しました。

登りが急坂なら、下りも急坂。位置エネルギーを開放するかのごとく、順調なペースで下ってしまいます。
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往路の半分程度のタイムで、あっという間に登山口まで。
呆気なさを感じるほど、あっという間に下山できてしまいました。


さて、下山したら温泉でビールをしてから帰るのが、お約束の行程……なのですが、今回は残念ながら時間がありません。
想定より下山の時間が遅くなってしまい、実家で所用のある私は先抜けする必要が生じてしまいました。

後ろ髪を引かれる思いながらも、登山口最寄りの近江長岡駅でフォロワー達と別れて、私は独り帰路へつく事となりました。
近江長岡から東海道線で名古屋へ、そこから新幹線を乗り継いで実家ヘ向かいます。
実家にて、来週に備えたキャンプ道具の詰替えをしたら、仕切り直して内房へと帰りつきました。

ちなみに、残ったフォロワーさんたちは温泉からの夕食を楽しんで、私が新横浜駅に着いた頃に名古屋を出たそうです。
……羨ましくないといえば嘘になってしまいますね。次はフルで参加できるよう、予定をもっと見極めないといけません。

弾丸なのらいぷ追撃

先週に引き続き、研修の指導に追われてて忙しさを噛みしめる今日この頃。
やんぬるかな、勤務時間の山で圧をかけていくしかないのでしょうか……。

そんな絶望的な多忙さが続く日々ですが、そんな中でも午前様を甘んじても死守したいのが土日の週末ですね。
今週は飛び出すように大阪へと行ってきてしまいました。


午前中は所用があったため、午後一の新幹線で一路、懐かしの西の大都会へ。
目的は先般のライブで大いにテンションが上って以来、行かざるを得ないと心に決めたnano.RIPEの初夏のツアーです。
東名阪と金沢での開催のうち、最も日程の都合が良かった大阪をチョイスしての参加。
もはや遠征とも言えない軽いノリでの大阪巡りです。

新大阪で御堂筋線に乗り換え、なんばで下車したらとりあえずは難波八阪神社に参拝します。
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神楽殿の巨大な獅子(?)に気負されながら御朱印を頂戴しました。
町中に不意に現れる平穏で神聖な空間。歴史ある町の中にある神社らしい空間でありました。
ただ、大阪の市街地の神社には共通して言えることなのですが、なぜこの地域の神社は夜間閉門が徹底されているのでしょうか。
あまり、他の地域で律儀に門を閉めるところが多くは思い浮かばないだけに、少し不思議な印象を受けます。

御朱印の頂戴後は、同じく大阪に来ていた元下宿生と合流。
好日山荘で少しお買い物をしたら、早々にライブ会場へと赴き入場といたしました。

今回のnano.RIPEライブのツアータイトルは“ゆうきのきのみ”。先に亡くなってしまわれたドラマーのゆうき氏を追悼してのライブです。
もっとも、追悼ライブといってしんみりしててはnano.RIPEらしいとは言い難いものです。
少し懐かしい曲の比率を高めつつも……いつもと変わらず少しノスタルジックで捻くれた、それでいて優しく熱い歌を届けてくれました。
会場もその熱い想いに答えてか、熱気は会場の壁面を結露させるほどの有様です。
久しぶりのオールスタンディングの会場で、背筋と腰が痛くなるほど我を忘れてライブに没頭し、楽しむことができました。


ライブ後は元下宿生の以前の同僚でもあるフォロワーの“かめい”さんとも合流して、キタの下町の飲み屋で一杯傾ける流れです。
ビールに初めて日本酒へと流れ、そのまま帰路にも買い足して、かめいさん邸でさらに飲み直し。
何故か「えんどろ~」の1話を見ていたことだけが不可解ですが、楽しい夜を過ごすことができました。


明けて日曜日も前日の続きと言わんばかりに、二日酔いをぶら下げたまま動画を垂れ流して過ごす午前中です。

ちなみに、かめいさん邸は町中の雑居ビルのような立地にあります。
窓を開ければ、心地よい風と一緒に街の喧騒が流れ込んできます。
文明と名もなき市民の息遣いを感じながら、友人らと気怠さをコーヒーで誤魔化す時間は、何とも甘美で頽廃的で素晴らしい時間でした。
そんな中でも、話の流れからウェザーロイドなる昔懐かしい企画を思い出すことができたのは、非常に良い経験でした。


さて、そんな素晴らしい午前中から抜け出した昼下がりですが、惜しむべきことに大阪とはお別れしなくてはなりません。
諸々の都合が重なってしまい、この日は夕方から今度は東京の池袋で飲み会の約束です。
フォロワーのちろさん、つぼっちさんと会うため、新幹線で東京へとんぼ返りとなりました。

池袋には少しだけ早めに着いたので、軽く最近の新刊を買ったり、銭湯で前日の汗を流したりしてから、約束の時間に合流です。
この日のお二人はどちらかと言うとクリエイティブな仕事をしている面々です。
私としては憧れ半分、縁遠い半分な存在……何故こんな風に一緒に飲める縁ができたのかとも、未だに不思議な気持ちにあるような間柄です。
それでも、業界の話からとりとめのない地元の話まで、終電を逃してしまうまで話し込んで、楽しく過ごすことができました。


お陰様で、ひと駅分、タクシーで無駄に走る羽目になったのですが……これはご愛嬌でしょう。
2晩続けて、楽しい夜を過ごすことができたので、満足といえる週末になりました。

これで、今週もなんとか乗り切れれば良いものです。

繁忙多忙の書き置き

職場で新人研修の指導役を仰せつかってしまいました。
昼に指導して、夜に仕事をする有様です。
休日を守るには平日を捨てるしかないです。

そんな訳で日記を書くどころではないので、最低限のメモ書きだけを残して、後日の資料にしましょう。

土曜日はフォロワーの優月さんと東京散歩へ。
向島百花園から白鬚神社を巡り、東武博物館を見物。その後、浅草方面に足を向け、鷲神社と吉原神社、吉原観音に参拝してから、浅草の町並みを経て神谷バーで一杯引っ掛けました。
神谷バーで時間調整をしたら、秋葉原へ移動して神田祭を見物。神輿の巡幸を見届けてから、神田駅近くのクラフトビール店で飲んで帰宅しました。

一方の日曜日は初めての競馬場体験のため、フォロワーの朔氏、和泉冴氏と東京競馬場へ。
色々眺めて……特に賭けなかったらボロクソ言われましたが、それはそれ。
その後は登戸の飲み屋さんで飲んで、解散となりました。

写真をいずれ上げたいところですが……どうなることでしょうか。

連休余話

連休の日記を一気に書いてから、ふと思い出したのが、事の発端となったウズベキスタンへ行くことになった理由である。

日記と言うには冗長な駄文となってしまいますが、どこかに書き残さずにはいられないので、ここに書くことにいたします。


さて、全ての発端は2年前、「賭博師は祈らない」という電撃文庫のラノベが発売されたことに遡ります。
社会人になってから読んだ小説の中でも、一際琴線に触れた一作として、日記でもツイッターでも事あるごとに言及している個人的名作です。
本編は今年の1月に無事、最終5巻が刊行されて完結してしまいましたが、全編を通してみても“半月”や“戦略拠点32098楽園”に匹敵するものであると、自分では信じ切っています。

そんな近年稀に見る一押しラノベ、舞台も異世界モノ全盛の昨今には、珍しく18世紀のイギリスと実在する歴史上に設定していました。
ロンドンやバースのような実在する土地から、名もなき少領主の村まで、当時の習俗がオブラートに包まれながらも丁寧に描かれていたのが見どころの一つです。
海外聖地巡礼が安易になってきた今日この頃の風潮。これほどまでにハマったラノベの舞台が、実在するとあっては行かない手はないと言わざるを得ない状況でした。
そんな精神状態で迎えた去年の大型連休は、予定調和のごとくイギリスまで飛び立って、ロンドンにバースとばっちり観光を決めてしまいます。


さて、これで聖地巡礼すべき土地は一通り巡ったかと思えば、そんなことで気持ちが収まる「賭博師」への思いではありません。
特に気にかかるのが、遠い異国から売られてきた奴隷ヒロイン、リーラの出身地です。
おそらくは1巻の時点から作者の中では概ね固まっていたのでしょう。
小出しに描かれた故郷を忍ばせる描写として1巻の“カスピトラに郷愁する”下りや、“薄く淹れて牛乳と塩で味付けする紅茶”などが比較的早い時期から描写されていました。

このうち、カスピトラの生息域は新疆ウイグル自治区を含めて現在中央アジアと呼ばれる地域の山岳地帯に生息していたトラの一種です。
19世紀頃から乱獲により徐々に姿を消し、20世紀後半にはほぼ絶滅したとされていますが、18世紀頃であれば、目撃する機会もあったことなのでしょう。
一方の塩を入れたミルクティーの文化、どんぴしゃりの習俗をネットの海から拾い上げることはできませんでしたが、ネパールやモンゴルで類似の飲み方を見かけるようです。
モンゴル系も往古には中央アジアを席巻した遊牧民の血筋。現在の中央アジアでは多数派から外れているとは言え、国境や民族の境目が曖昧であった時代には、現在以上に混在していた可能性は十分に考えられます。

それを裏付けるように、4巻ではリーラ自ら世界地図の“清のやや西、インドの北”を指して「私の、国」と表現します。
18世紀の清帝国は西域への拡大を志向した時代。
当時、中央アジア東部で勢力をはったジュンガルと数次に渡る戦争を繰り返し、18世紀半ばに新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)として併合しています。
リーラが用いた地図にどのような国境線が引かれていたかは不明ですが、続けて彼女は己の出自を中央アジアの「古い? 年上の? 部族?」と言及します。
時系列的に亡国の貴族とも考えにくいですが、滅亡したジュンガルの民、あるいはそれよりも古い部族を指しているのでしょう。
合わせて、その生まれ故郷を「草原と狼と旅の国」と表現していました。
狼自体は当時、ユーラシア大陸の全域に生息していたため、あまりヒントにはなりませんが……狼の伝承と言えば、モンゴル族の始祖である蒼き狼の伝説を想起させます。

そして最終巻の最後で、ストレートに明かされるのがリーラの本来の名前「カルゥガシュ・シャイフラムス」です。
何かの決定打となるかと期待したのですが、生憎と“シャイフラムス”でググっても、ヒットするのは「賭博師」関連ばかりです。
アルファベットやキリル文字での正書法がわかれば、あるいは違う結果なのかも知れませんが……今の私にはそこまでの語学力はありません。

さて、斯様な次第で、薄っぺらいにわか仕込みの中央アジア知識を並べ立てて考えても、感じ取れるのは何となく中央アジアの東側っぽい気がするという感想だけです。
現在の地図で言えば、新疆ウイグル自治区からキルギス、タジキスタン周辺にかかる山岳地帯が該当します。
もう少し真面目に考えるなら、「乙嫁語り」辺りでも読んでおくべきだったかな……嘆息してしまいます。


しかしながら、あれこれと空想を膨らませても、旅行に行くにはロマンと動機も大切ですが、予算と時間には逆らえません。
学生崩れのバックパッカーならいざ知らず、社畜が寸暇を惜しんで浮浪しているのですから、なおさら時間には色々とシビアです。

そうなってしまうと、漠然と「中央アジアに行きたい」と思っても、政情も交通インフラも不安定なのがネックになってしまいます。
年明けの「賭博師は祈らない」の5巻発売頃から、ぼちぼちと調べてみるのですが、結論として航空便が少ないか素人には難しいということがわかるばかりです。
その中で、比較的可能性がありそうだったのが、想定地域から少し東にズレた中国のウルムチ近辺と、今回行ったウズベキスタンの2箇所でした。

天秤にかけて、深刻に……最後まで考察に悩む素振りも良いですが、こうなってしまえば考察が主目的ではありません。
方向性が決すれば、聖地巡礼は二の次です。
どうせ行くなら、未だ入国スタンプをもらったことのない国。しかもシルクロード屈指の古都、現CIS諸国、偉大なる世界遺産の遺跡……さらにはビザ免除による入国ハードルの大幅な低下も後押しして、ウズベキスタン行きが決まってしまいました。


しかしながら、こうなってくると宿題もじわじわと増えていきます。
政情不安やビザの都合もある以上、近隣のキルギスやタジキスタンは後回しとしても、その先の新疆ウイグル自治区ならば何とかなる気がします。
具体的にはウルムチ、可能なら足を伸ばしてカシュガルくらいはいずれ行きたい気分です。

また「賭博師」本編も作中終盤はイギリスと関連する様々な地名が登場してきます。
リーラの故郷への玄関口、インド。おそらくは当時イギリスの有力な植民都市であったムンバイでしょう。
あるいは、主人公ラザルスの友人が流刑されたオーストラリア。ちょうど18世紀終盤は、現在のシドニーにあたる地域にオーストラリアで最初となる流民植民地が拓かれた時期とも重なります。

ムンバイもシドニーも、何もなければ無縁の土地。良い口実ができたので、いつかきっと行ける日が来ることを願ってしまいます。

大型連休の機動戦・草原と青空の国編

前半編から続いて、成田空港で一夜を明かして、朝一番で旅行代理店の前に集合した4/30日。

この日はこのまま、ツアーの添乗員に引率されて、外つ国へお出かけです。
驚くなかれ、生まれて初めてのフルパッケージツアーでの旅行です!
添乗員がついてくるなんて、学校の修学旅行以来でしょうか。
大型連休の影響もあり、自力で手配するより安かったのだから……仕方ありませんね。

行って来たるは初めての中央アジアにして初めてのCIS諸国、初めての内陸国――ウズベキスタンです。


成田空港から大韓航空機に乗り込み、仁川国際空港を経由して日付が変わる前に首都のタシュケントへ到着です。
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首都タシュケントは後漢書にも“石国”の名で記録を残す古代からのシルクロードのオアシス都市。
ロシア帝国の南下後は交易都市として発展し、ソビエト時代にも独ソ戦線からの工場疎開による工業の移入や、郊外での綿花などの栽培により、屈指の都会へと発展していったのだそうです。
1966年の大地震により、往年の歴史を伝える建造物の大半を喪ってしまいましたが、それでもソビエト、中央アジアの有力都市としての風格ある町並みを垣間見ることができます。
もっとも着いたのは現地時刻で21時頃のこと。何をするでもなく、この日は両替だけしてビールを舐めたら寝ることになりました。

ただし、ちゃんと観光するのはまた後ほどの話です。
まずは観光バスと高速鉄道を乗り継いで、シルクロードの交差点、古都サマルカンドへと向かいました。
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車窓から眺めた青空と少し乾いた草原が、この後ずっと見ることとなるウズベキスタンの一番の印象的な光景です。
砂漠の国と思ってきたのですが、案に相違して巡ったのは灌漑地帯が中心でした。
水路が巡らされた田畑が続き、緑が思った以上に多かったのが正直な感想です。
灌漑がなくとも草原程度にはなったのでしょう、“青空と草原の国”というのがこの旅に終始ついて回る印象でありました。

ちなみに列車はスペイン製の高速鉄道システムとのこと。連接車方式なのが興味深い構造でした。
内部は一般的な2+2の座席構成。ひざ掛けの間にコンセントがあったり、機内食ならぬ車内食のサービスがあったりするのが日本との違いでしょうか。
あとは、車内のモニターでひたすら手工芸のハウツー動画を流していたことが、一番の衝撃です。
一時、車窓から目を離して、ひたすら手際よく作り上げられていく数多のケーキを見てしまいました。

そんなこんなで退屈する間もなく、シルクロード屈指の古都、サマルカンドへ到着です。
サマルカンドは近隣屈指のオアシス都市であり、紀元前10世紀にはその原型と思われる町が記録に残る世界でも屈指の古代都市です。
翻って騎馬民族による交易が華やかりし時代には、これまた東西軸を成すシルクロードに加えて、シベリアやルーシなどの北方諸国、あるいは南に目を向けてインドと、東西南北の交易路が重なる文明間の要衝でした。
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特に中央アジア地域に覇を唱え、モンゴル帝国の旧領の半分を領した英雄ティムールは、この地に首都に設置して現在に残る多くの建造物を遺しました。
レギスタン広場もそんなティムールの王朝が遺した世界遺産の一つです。
3方を壮麗な神学校に囲われた美しい広場です。

広場そのものもさることながら、それぞれの神学校一つとっても、見入ってしまうような美しさです。
砂色の基材に映える青いタイルの装飾が、乾燥した地域らしい抜けるような青空によく映える光景でした。
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また石造りで覆われているものの、当然ながら扉のような可動部位は木製が中心です。
この木の扉の類もまた、精巧な彫刻が施され、無骨な石造りの躯体との対比に見惚れてしまいます。
壮麗な建築と中庭の中央アジアらしい風情、かつて学生が宿舎にしたという部屋がお土産物店になっているのも、また一興でしょう。
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語ればキリのないイスラム建築の美しさですが、キリがないので程々にしないと次の行程に支障をきたしてしまいます。
これが一人旅なら、いくつか予定を切り捨てるところなのですが……そうは行かないのがツアー旅行の難しいところです。

後ろ髪を引かれながら観光バスに乗り込み、レストランで昼食を食べて、次の観光地へと向かいました。
2箇所目はグーリ・アミール廟。“グーリ・アミール”だけで「王の墓」を意味するそうですが、具体的にはティムールの墓所となります。
外観は青いタイルに覆われた壮麗な建築です。
様式を見れば、これが墓所なのか、モスクなのか、宮殿なのか……とわかるのでしょうが、生憎とイスラム建築には疎いので、同じに見えてしまうのが正直なところです。
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それでも墓所と聞いてはしゃぐ気になれない程度の敬意は持ち合わせていますから……。内部には埋葬位置を示す墓石が並んでいます。
曰く、中央の黒い墓石がティムールの墓所の位置を示すもので、実際の棺はこの直下に位置する地下室に安置されているそうです。

ちなみにこの墓所の有名なエピソードとして、1941年、ソビエトの考古学者が科学調査のため発掘した際の話があります。このとき、ティムールの棺の中には「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」と記されていました。
ちょうどその発掘が行われた数日後、まさにドイツ軍がソ連への奇襲的な侵攻を開始し、ソビエトは未曾有の危機を迎えることとなってしまいました。
棺の文字に恐れをなしたのか、はたまた純粋な古の英雄への敬意か――遺体は調査の後、イスラム教式の手順に乗っ取り、再び丁重に埋葬されることになりました。
ただし、このときの調査においては、ティムールは片足が不自由であったことや、3代目のウルグ・ベクは首を切られて殺害されてたことなど、歴史書に記された人物描写が概ね真実であったことが明らかになっています。
ウズベキスタンで広く流布するティムールの復顔像も含め、考古学としては多いなる進歩をみた調査だったのは事実のようです。


ティムールの霊廟の次は、サマルカンド郊外の丘に位置するシャーヒ・ズィンダ霊廟群と呼ばれる墓所や儀礼用の建築物の集合体を見学します。
伝説では、イスラム教の布教に訪れたクサム・イブン・アッバースという聖者が、この地で殺害され埋葬されたことに由来する霊廟が最初に建っていたとされています。
その後、彼の聖者を慕う人々により、11世紀から19世紀にかけての約9世紀の間に、周囲には霊廟が建てられ行き、門や儀礼用の建物が整備されて、一大霊廟群が形作られていきました。
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基本的には最奥部に位置する聖者の墓所から、丘の斜面を下るように時代を下るように数多の霊廟が並びます。
ガイド曰く、特にティムール朝やその配下と縁のある女性が多く埋葬されているです。
何はさておくも、その四方を墓所の青いタイルに囲まれた路地の風景はまさに死者の都、ネクロポリスといった風情です。
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それでも恐怖や不気味さよりも、壮麗さや青いタイルの美しさが先に立つのは、不思議な気持ちです。
カラリとした気候のなせる技か、意図して湿っぽくない作りなのか、あるいは文化的な文脈を認識してないだけなのか……疑問は謎のままですが、美しかったのは間違いありませんでした。

余談ながら、この周辺は現在でも現役の墓地です。もっとも、当然ながら霊廟群のような壮麗な建物こそありません。
崖に所狭しと墓石が建っている様は、ある種日本の田舎にも通じる区画整理されていない墓地の光景でした。

霊廟群の次は歩いていける距離にあるシヨブバザールを経由して次の目的地へ向かいます。
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このバザールは市内でも最大級のバザールであり、その発祥は2000年前に遡るとも言う伝統あるものです。
生鮮食品から金物屋、加工食品に日用品と、数多のものが雑多に取引される活気あふれる空間を垣間見ることができます。

もっとも、イスラム建築に魅せられた身としては、隣接するビビハニム・モスクの方がより魅力的です。
ティムールが建築させたものの、急造が祟り短期間で使用に耐えられなくなったと伝わる巨大モスクです。
ソビエト以来の復元プロジェクトの途上だそうですが、それでも門の高さは40mは超え、中央アジアでも随一の巨大なモスクとなります。
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本来であれば周囲を高い壁が囲い、中央に広大な中庭を備える壮大な建造物であったそうです。
今でこそ、復元途上の門や3辺を守るドームのみが残されるばかりですが……それでも、その壮大さと程よい廃墟感が非常に魅惑的な遺跡でありました。

霊廟やモスク観光のあとは家庭料理が食べられる一般家庭兼業の食堂で夕飯を食べる予定でした。
ところが、本来であれば門前までバスで乗り付けるのですが、なんと「リフォームシーズン(!)」とやらで、バスが路地に入れないとのこと。
仕方ないので、大通りから路地を徒歩移動により、夕食の待つ食堂へと向かいました。
人によっては災難かも知れませんが、個人的には路地裏散策は異国で最高の楽しみです。
万事塞翁が馬、ツアー旅行だからと諦めかけていた余録に、思わぬ形で遭遇することができて大満足でした。
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ちなみに出てきた様々な調味料や具材で料理は蒸し茹でにした米料理です。
非常に美味でしたが、如何せん量が多いために、全て食べきれなかったのが非常に申し訳ない気持ちになってしまいました……。

夕食後の腹ごなしはバスでレギスタン広場に戻り、夜景鑑賞です。
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この日は偶然にもプロジェクションマッピングを上映するのだとかで、大層な人混みになっていました。
内容としてはシルクロードの交易をモチーフにした物語だったようですが……残念ながらナレーションのウズベク語がわからないため、今ひとつ浅い理解しかできてない雰囲気です。
それでも、美しいプロジェクションマッピングを、偶然見ることができたのは僥倖と言っても過言ではないと感じました。

ちなみに宿泊した宿はレギスタン広場のすぐ近くです。
アクセスも良いので、夕涼みに散歩に行ったなんて同行のツアー客も居たそうです。
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また余談ながら、門前に邪視よけの護符(扉上の目玉状のもの)を吊るしてあります。
習俗としては何かの折にウィキペディアなどで知っていたのですが、実際に見るのは初めての経験です。
文字列だけで知っていたことが、目の前で何気なく実演されていると、ちょっと感動しますよね。

ちなみにサマルカンド市街は通信状況が貧弱です。私が訪れた際には電波そのものは通じるものの、データ通信がほとんど出来ない有様でした。
利用者数に対して通信インフラの容量が追いついてないような印象です。
その鬱憤を晴らすつもりだったホテルも、部屋の無線LANは貧弱ですから救えません。
仕方なくバーカウンターでビールを飲みながら、その日の写真をツイッターに上げたりしていましたら、うっかりボッタクられてしまったのだけが痛恨事です。


ホテルで色々しくじったのは脇においておき……翌朝5/2はバスではなくセダン車に分乗して、更に南の街を目指します。

車はあっという間にサマルカンド市街を飛び出して郊外へ。さらに人家もまばらな草原地帯へと駆けていきます。
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道中、標高1600m程度の峠道の頂上で一休み。日本のパーキングエリアのごとく広々とした駐車スペースが用意されています。
もちろん露天商が店を広げているのですから、商魂たくましいです。ドライフルーツやドライヨーグルトなどの乾物、お茶の葉っぱが中心に取引されていました。
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またこの峠の特筆すべきは眺望の素晴らしさ。青々とした山並みと青空が一望のもとに望めます。
あるいは道路に目をやれば、どこまでも青空へ向かって伸びる道……旅を実感する良い光景です。

そんな光景を眺めながら、車に揺られてきたのはウズベキスタン南部の都市、シャフリサブスです。
ここもシルクロード時代には中央アジアの主要都市として、玄奘三蔵の「大唐西域記」にも名を残す都市だったそうです。
ティムールの故地として、首都サマルカンドと並んで遺した建造物が散在する地域なのだそうです。

そんなティムールの遺産の一つ、アクサライ宮殿が最初の目的地の一つです。
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今でこそ、1対の柱に成り果てていますが、本来はビビハニム・モスクをさらに大きくしたような門だったそうです。
建造当初の塔は50mの高さに達し、宮殿の上部には「もしも、汝我が権力に挑むならば、この建物を見よ」なんて文字も記されていたのだとか。

アクサライ宮殿からバスで少し移動したところには、本来ティムールの墓となるべきだった場所も遺されています。
冬の間、道が閉ざされてしまいシャフリサブスの墓所へ運び込めず、現在のサマルカンドの霊廟に葬られてたと伝わっているそうです。
そんな霊地といえど、好きあらばフリーマーケットのような露天商がお土産物を売っているのも、ある種の観光地風情でしょうか。
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興味深いのはホンの壁一枚で隔てられた向こう側の現役のモスクでは、一切商売の雰囲気を見せないことです。
扉の向こうでは悠々と神聖な遺跡の敷地内で商売しているのですが……その線引きの感覚はわかるようでわからないような、不思議な感覚です。

またティムールの墓と隣接するルッテイロヴァット(瞑想の家)建築群と呼ばれる一群のモスクもまた一見の価値ありです。
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いくつかのモスクや霊廟が一つの壁でまとめられた建築物群、多くを語ることはないですが、ここもまた実にきれいでした。

シャフリサブスは非常に良い町ながら、規模も小さいためか駆け足で観光終了です。
昼食に串焼き肉を食べたら、来た道を戻ろうように再び峠を超えてサマルカンドへと向かいました。
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ところで、シャフリサブスまで来ていた間、遥か南の地平線上に、ずっと白銀の山脈が目についていました。
うっすらと霞んだ山並みは、遥か遠くにあることを示しているのですが、そうとは思えない高さに顔を出しています。
ガイドに聞けば、遥か南に聳えるインドヒマラヤ山脈の西端なのだとか。山を越えればアフガニスタンでありインドなのでしょう。
近くて遠い距離感を象徴するような光景でありました。


車でサマルカンドへと戻ったら、観光バスへと乗り換えて郊外に立つウルグ・ベクの天文台を見学です。
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ウルグ・ベクはティムールの孫に当たる人物。王としての目立った業績はないものの、行政官や天文学者としては類稀な功績を残した人物なのだそうです。
そんな彼が富と権力をもって建設したのが、数十mにも及ぶ巨大六分儀を要した天文台なのだとか。
その観測精度は現代に匹敵し、恒星表や各種の成果は遥かヨーロッパの天文学者間でも讃えられほどだったそうです。
ウルグ・ベクの死後は破却され長く砂に埋れていたのですが、20世紀初頭に発見され、その実在と遺構の巨大さが明らかになりました。
隣接する博物館をゆっくり見れなかったことだけが心残りですが、実に良いものを見ることができました。


天文台のあとは少しだけ寄り道を挟みつつ、夕飯の待つレストランへ。
ここで伝統舞踊のパフォーマンスを見物したのですが、何を間違ってかツアー一行の代表として花婿役をやる羽目になってしまいました。
伝統的な曲に合わせて、踊り子が歌いながら花嫁、花婿それぞれに衣装を着せていくという代物。
よく似合っている! 結婚式の練習ができたね! と散々に煽られてしまいました。こんな大陸の真ん中まで来ても、極東と同じ目に遭うとはなかなか因果な話です。
でも、気を取り直して宿へ戻ったら、この日は夜の散歩に向かいます。
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平日もライトアップしているというレギスタン広場を見物です。
キレイなライトアップもさることながら、驚かされたのはその治安の良さでしょう。
21時に近い時間帯ながら、女子供が平気な顔で遊び回っているのですから驚きです。
日本のお祭りでも、もう少し警戒するのではと感じるほどの賑わい、無警戒ぶりです。
脇を見れば、老紳士がアイスを頬張ったりもしていますし……夜の観光地とは思えない長閑ぶりを味わうことができました。


夜は再びバーでビールを飲み、一眠りすればついにウズベキスタン最終日となる5/3です。
この日は朝から観光バスに揺られて、半日かけて首都タシュケントへ戻ります。
往路は2時間ほどの高速鉄道、帰りのバスとなると5時間近くかかるのですから、鉄路の偉大さが身にしみます。
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もっとも、目線が変わるというのはとても興味深いことです。
大陸らしい真っ直ぐな道や、舗装されてない埃っぽい道など、日本ではなかなかお目にかかれない自動車事情も垣間見ることができました。

タシュケントに戻って最初に向かったのは日本人墓地です。
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シベリア抑留の際、一部の抑留民がタシュケントを始めとするウズベキスタン地域に移送され、労働に従事することとなりました。
この期間に命を落とした方々の墓が、このタシュケントをはじめ抑留地近くの都市には散在しているそうです。
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そんな抑留民が建設した代表的な建物としてナヴォイ劇場があります。
ロシア形式の立派な劇場は、市街を半壊させた1966年の地震をも耐え抜いたことで、タシュケント市内における日本人抑留者の知名度を一躍有名にしたと言われているのだそうです。
そんな歴史を差し引いても、立派な正面と綿花をモチーフにした噴水の組み合わせは、実に絵になる光景でした。

その他、見て回った箇所としては近年撮影が解禁されたタシュケント地下鉄が特に印象的です。
旧東側の地下鉄駅は、非常に豪奢に彩られているものの地下シェルターの役割も担うため、写真撮影がご法度でありました。
ところが、ここウズベキスタンでは去年頃からの開放政策の一環として、地下鉄構内の撮影が解禁になったそうです。
あまり公共の場で派手にシャッターを切りまくるのも、品がないようで気が引けます。それでも、流石は解禁前からこっそり撮った写真が出回る程の優美さ。数枚は撮っておきたいと思わざるを得ない美しさでした。
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あとは騎乗したティムール像も、ウズベキスタンの英雄として外せないスポットですね。
かつてはここにマルクス像が、次いでレーニン像、スターリン像が建ってたと聞くと、何とも言えない気分になりますがご愛嬌でしょう。

記念撮影を終えて、東側らしい建物の合間を縫いながら、バスは最後の目的地を目指します。
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途中で時間調整がてらに現地のスーパーでお買い物をしたりしつつ、バスはタシュケント国際空港へと戻ってしまいました。


ちなみに空港内は私と同じような日本への帰国者でごった返す有様です。
ウズベク語の案内と、飛び交う日本語の雑談、韓国系航空会社名のチェックインカウンターに並ぶ日本人と、誰だからわからないたどたどしい英語……たまに稀に見かける欧米中の人。
自分がどこにいるのかわからなくなるような、今まで経験したことのない多国籍感を味わいつつ、離陸を待つことになりました。


復路も何ら問題ない大韓航空便。先方も知れたもので、日本語が使える客室添乗員を用意しているのですから、準備の良さに頭が下がります。
大過なく乗り継ぎも成功し、仁川国際空港を経由して5/4の昼過ぎに成田へと帰国いたしました。


帰国後は少し、新宿歴史博物館へ寄り道しつつも夕飯前には神奈川の実家へ。
たまには親孝行が必要と、家族揃っての夕飯を食べてこの日はおしまいです。

よく5/5は横浜まで氷川丸を見物しに行きます。行きずりで元下宿生と大学の先輩も同行する流れに。あれこれ好きに言いながら船内を散策すれば、意外とみんな楽しめるものですね。
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その後は山下公園で催されていたイベントに紛れて青空の下でビールを飲んで過ごします。
夕刻からは渋谷に河岸を変えて元寮生や長野人も加えて、連休最後の飲み会をしてそれぞれの家路へと就きました。


そんなこんなで……流石に最終日、5/6は弾切れネタ切れ、殊勝に実家でゴロゴロして過ごし、来週以降の荷造りを企んで1日を終えました。

今週は反動が大きいですね。
特に週末の予定がないのが非常に良くないです。どこか遠くへ行かないといけない気がします……どこへ行ったものでしょうか。

大型連休の機動戦・前半編

世が10連休で賑わった所謂ゴールデンウィーク。
幸いなることに、弊社もちゃんと休日を確保することができたので、久しぶりの少し長い休日を謳歌することにいたしました。

連休の過ごし方は大きく分けると前半の関東をウロウロした期間と、中盤の遠出をした期間、最後の至福の日々の終わりに打ちのめされる期間に分けられるでしょうか。
まずは前半の関東をうろうろしたところから。


そんな訳で時代はまだ平成だった4/26の金曜日は、仕事終わりから一目散に実家へと帰って、翌日以降に備えて日々は始まります。
土曜日は実家の車で父親と関東の北部、群馬と栃木の県境方面へ。
途中で下の妹も拾って、家族でドライブです。
行った先は栃木県に位置する鎌倉・室町以来の武家の町、足利です。

足利はその名の通り、足利幕府を建てた足利氏の故地です。
足利氏は源義家以来の系譜を引く源氏の名門、近隣の新田氏と並んで鎌倉時代も源氏の御一門として有力御家人の地位にあったとか。
後年、この一族の足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼして室町幕府を建てることになります。
その後も、足利氏の一派である関東公方や近隣の有力豪族が係争する土地として、また由緒古い学校の所在地として長く地名を歴史に留める町となりました。
今も町中には往年の歴史や、或いは昭和レトロを思わす古びた町並みを残し、散策するには良い町並みとなっています。

もちろん、そんな町並みと言えど、最初に訪れたのは神社です。
江戸時代に建てられたという立派な社殿を要したお社です。
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古来から続く織物の守り神として勧請されたため、織姫神社の名がついたついたのだとか。
由緒書によれば、祭神の天御鉾命と天八千々姫命は、伊勢神宮で絹織を司った神なのだそうです。
織姫と言うと七夕を連想しますが……直接は関係ないみたいですね。

織姫神社で御朱印を頂いたら、次は足利氏の邸宅跡に位置する古刹、鑁阿寺も参拝です。
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山門の前には鎌倉期の館の面影を残す堀が巡らされていたりと、かつてここが邸宅跡だったことをそこはかなとなく感じ取ることができます。
そんな由縁もあってか、なぜか“日本100名城”の一つに数えられていたりもします。
それはさて置くとしても、かつては広大な寺域を有した有力な寺院だったそうで、重厚さを感じさせる黒い伽藍には息を呑む風格を感じることができました。

鑁阿寺に続いて訪れたのは、足利学校という古代から中世に存続した日本唯一の学校です。
その発祥も詳らかではないほどの古い学校でありながら、戦乱の世においても学問の経脈を保っていたのだとか。
明治期、近代の学制にその機能を引き継がれるまで、日本で最も名の知れた学校であったそうです。
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その建物は立派な茅葺きの屋根を要し、内部は落ち着いた畳敷きです。
往年にはココに多数の学僧が集まり、知慧の研鑽に励んでいたのでしょう。
個人的には心地よい天気も合わさって、のんびりと昼寝でもしたい雰囲気でありました。


日が傾いてからは、足利の市街地を後にして、郊外のあしかがフラワーパークへ向かいました。
こちらも藤棚が非常に立派だとかで、世界的にも名を知られている名所です。
噂に違わず、かなりの外国人も見かけたのが印象的でした。
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肝心の花々は見頃もアレば、まだ蕾が固いものも混じっています。
ただ紫の藤の花がちょうど見頃を迎えていたのは幸運でしょうか。
夕刻から肌寒い気候になってきていたものの、それでも見応えは十二分にあります。

特に日没後、内側からライトアップされた藤棚は幻想的とも言える光景です。
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見上げると広がる花の天井は実に印象的でした。

フラワーパークの後は比較的遠くない下の妹の家に一泊、近くの飲み屋で一杯飲んで、翌日に備えました。


翌日は見事な晴天に恵まれたお出かけ日和。
朝から一人で前橋駅へ出向き、大学時代の友人、元寮生、元下宿生と合流したら、この日のお出かけの始まりです。
駅前から赤城山ビジターセンター行きのバスに乗り込み、1時間以上揺られて赤城神社の鎮座する大沼のあたりへ行き着きます。
ここで最後の物資補給をしたら、この日の目的、ハイキングに出発です。
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赤城山は火口湖である大沼をぐるりと囲うように聳え立つ外輪山の総称です。
向かう先はその外輪山のなかでも、最も標高が高いのが目指すべき高み、黒檜山です。
そんな黒檜山へ向けて、赤城神社の裏手に位置する登山口から、登山道に踏み込み行ってきました。

行程はほぼほぼ急登。1時間少々の間、傾斜45度近い上り坂をひたすら登り続けます。
初心者向けと書かれていたガイドマップを疑いながら、黙々と登っているうちに山頂へ至ってしまいました。
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こんな登山コースもあるものなのですね……驚くばかりです。
しかしながら、登った甲斐は間違いなくありました。遥かに広がる山並みは、上信国境か……或いはさらに向こうの北アルプスでしょう。
遠い山並みを一望できる素晴らしい眺望にめぐりあうことができました。

加えて若干の残雪。本来は足元が泥濘み、あまりよろしくはない状況なのですが……この程度なら誤差でしょう。
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比較的平坦な尾根筋は途中から雪も消えて歩きやすい道のりとなり、しばらくたどっていけば隣接する赤城駒ケ岳にも登頂です。
この後は駒ケ岳から尾根伝いに降りる道をたどって別の登山口へ。
下山後は赤城神社近くのお土産物店でビールとイワナを注文し一服です。
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この後、バスで温泉を経由して前橋の飲み屋さんで飲み直し、帰宅となりました。


深酒が過ぎたものの、無事に帰宅した翌日の月曜祝日は、午後から活動開始です。

火曜日以降の装備を整えたら、夕方から有楽町の国際フォーラムへ向かいました。
この日の目的は声優の早見沙織さんのコンサートをみること。以前から見事な歌唱力と2ndアルバムの独特な曲目に惹かれて、ライブに行ってみたいと思っていた次第です。
折よく近場で、チケットもまだ買えると知って大急ぎで手配してしまいました。

内容としては1st・2ndアルバムの曲を中心に、フルオーケストラで構成された豪華な内容でした。
アレンジの効いた楽曲も多数あり、新鮮な気持ちで見事な歌声を堪能することができました。
癖のある楽曲と、癖のない歌声、また機会があったら是非とも行きたいと思える非常に良いライブでした。


ちなみにライブ後はそのまま成田空港のカプセルホテルへ。
翌日から海外逃亡に移行したためです。

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